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「百万年くらい練習して、いつか文章で飯を食う」――そうして百万年が経ち、わたしはまがりなりにも文章で飯が食えるようになった。とはいえ百万年は、じつにながい。とうぜん様々なことがあった。ヒトを壊す病と戦争が世界に蔓延し、この国ではモノの価値というものが際限なく上がり続けている。
一方で振り返ってみれば、百万年はまるで昨日のことのようにあっという間にも感じられた。なにしろ、本来なら一生という時間をベットしていいはずの職業の三つを股にかけたのだ。プログラマー、ゲームや映画のライター、そして現在はシナリオライター。めまぐるしく移り変わってゆく中で、わたしはふと、わたしが何者なのか、何を為して(何に属して)いるのかわからなくなる時がある。シナリオライターといえど、ビデオゲームにおけるシナリオライターというものは、その業務範囲が想像を超えて多岐にわたるということもあるのだと思う。
今年の半ばごろのこと。ひとつのプロジェクトを終え、次の仕事に本腰を入れようとしていた時だった。しかしプロジェクトが終わったことによる喪失感は続いていて、そこに自らの生活状況なども重なったことで、わたしは急に現実に放り出されたような感覚に陥っていた。年の頭に「世界を変える算段が立っているんだ」というラスボスのセリフを書いた際には、セリフに半ば自らの気持ちを込めていた筈だが、あの時のわたしにはもうその意味がよくわからなくなっていたことだろう。
そうして業務の傍ら、ふとその終わったプロジェクトを懐古しようと、わたしはかつて公式HPにつながっていたハイパーリンクをクリックした。
2024年12月現在、そこに広がっているのは紛れもない虚無のはずだ。しかし、何らかのトラフィック上のエラーだろうか。そのときは間違いなく、真っ白なページの中央にぽっかりと穴が表示されていた。空いている穴の中を覗いてみても深さは検討もつかず、ただ黒く塗りつぶされたようにモニターの外――多くの人はそれを社会とも呼んだ――とは異質な深淵が広がっている。
そうなれば、衝動だ。
わたしは目の前に広がる穴の中へ飛び込んでみたいと思った。飛び込んでから後のことなど、考える気も起きやしない。私は祈る。今あるこの意味のない世界から、どこか遠くへ連れ出して欲しいと。
右手をマウスから離し、液晶のモニタに表示された穴の中に突っ込んでみる。吸い込まれるように右手が暗闇の先へ届いた。穴の入口より先は真っ暗で、入れた右手すらどうなっているかわからない。だが指先に何かが触れるような感覚もない。穴は予想通りに深かった。今度はキーボードに掛けていた左手を入れてみる。これも入った。わたしは両手をモニターに表示された穴に突っ込む形で、デスクに座していた。次は頭だ。頭さえ入ってしまえば、穴の向こう側へ――
そうして気がつくと、わたしはまっくらな穴の中に転がり落ちていた。ふかいふかい地の奥底。それでも外から覗いた時には気づけなかった光が、穴の中へ微かに届いている。光を頼りに、ピクセルの水面にかろうじて映る自らの姿を臨む。だが、そこでのわたしは一体何の"かたち"をしているのかが、わからなかった。
焦茶の体にまんまるの目がついたちいさな何か。10×10px程度のドットで表現可能な最大限の外見といってよいだろうか。腕はないが短い脚はあるようで、どうにか高く飛び跳ねることはできる。
『Animal Well』は犬やカンガルーなど、様々な生き物たちが巣食う暗闇の中を進んで外に出ることを目指すアクションゲーム。フリスビーやスプリングなどの現実によく知るアイテムを駆使して攻略していくのだが、最も面白い点はその特徴的なアイテムの活用方法にある。ただし、本稿ではそれらについてを一切割愛する。興味があれば既に世にある他の記事などを漁ってもらえばよい。
ここで触れたいこと。それは数十時間に及ぶ暗い地の底の冒険の間、操作キャラとなる主人公が何者なのかはわからず、そのヒントすら与えられないという点だ。
一方でプレイ中を通して常に描かれるのは、そこにいる殆どすべての生き物からの拒絶か無関心である。ダチョウはわたしを踏み潰そうとするし、カメレオンはこちらが隙を見せれば一飲みしようとする。あのコウモリにすら同種とは認められることなく、襲いかかられてしまう始末だ。
すべての生き物は、わたしが仲間であると認めやしない。しまいには姿形が定まらない異形にすら襲われて、自らが何に属するのかわからないまま、唐突に話は終わりを迎えてしまう。
補足しておくと、通常のエンディングを見た後、かなりハードコアに隠された収集要素をすべて集めた先で、ようやく主人公の正体は明かされる。そこまでプレイしてようやく、文字通り自らがあるべき場所へ羽ばたくことができるのだが、たどり着けるのは全プレイヤーの0.1%以下だろうし、その正体自体にはあまり物語的な意味はない。
つまり何が言いたいか。それは『Animal Well』において、自らが何者で何をすべきかは巧妙に隠され続けており、プレイヤーはそれらを知りたいと願う好奇心のみで駆動し続けているということだ。そしてこれは、紛うことなき現実の再編集でもある。少なくともわたしは、自らが何のために生まれたのか、その意味に何かしらの理由をつけようとして、生きている。
さらにいえば。これは『Animal Well』のストーリーテリングについての話ではない。ほとんどのビデオゲームにおいては、小説や映画とは違って主人公はわたし自身であり、主格は一人称である。だからこそ、観測手でもあるわたし――プレイヤーキャラクターが何者かなのかという命題からは常に離れることができない。
過去を捨ててミッドガルの地下七番街を飛び出し、広大なグラスランドに圧倒された時のわたしも、自らが何者なのかということについて悩み続けていたのではなかったか。あの時代の「ファイナルファンタジー」に共通していたのは、自らが何者で、何処に身を寄せるべきなのかという根源的な葛藤だったはずだ。
『サイレントヒル2』においても同様だろう。自らの精神の象徴である「サイレントヒル」へ迷い込む主人公の哀しき旅路は、取り返しのつきようがない人生を顧みながら生きる現実の暗喩である。
大事なのは、「自らが何のために生きているのか」――その答え自体には、いずれも取り立てて意味がないということだと思う。それを考えようとして駆動し続けることに、意味があるのではないか。答えを求めようとして考え続けた過程にこそ、「わたし」がいるのではないか。誰に尋ねるわけにもいかない、自分自身で歩むしか道はない。
そういったわけで、2024年のわたしにとってのビデオゲームはある種のセラピーであり、間違いなくビデオゲームに生かされていた。穴から這い上がることができた。だからこそ、次の百万年はもう一度それらについて考えてみようと思う。きっとその百万年もまた、あっという間のはずだから。