ヒトトモノノ歯車

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さよなら、バットマン

  映画を観に行く時、いつも必ず目にする風景がある。それはある個人経営のスポーツ施設であり、「ユニオンステーション」という看板を掲げたそれは、映画館に続く広々とした道に面していた。地味な飲食店が立ち並ぶ中、周囲とは浮いた店名の通り品の無いその外観が一際目立っていた。施設には、ボウリングやバッティングセンター、カラオケ、ダーツを始めとする、友人たちと無意味に時間を潰すにはふさわしい遊戯が数多く用意されている事を示す、色とりどりの看板やのぼりが並んでいる。利用価格も安価なことから近隣に住む学生の遊び場として親しまれていたらしい。僕の中学時代にも友達同士でそこに意味もなく集る事が多かったようだ。名前だけ聞くと大仰な施設だが,実際には豊富な遊具や多くの学生がおさまりきるとは到底思えない少々こじんまりとした大きさで、脇を通るたびにどのような中身なのかと疑問が湧いていた。しかし、その解答はおそらく永遠に得る事ができない。そこに入った事がなかったし、入る事も無いだろうから。

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こちらは実際のユニオン駅、ユニオンステーションはもっと小さい

 

ブルース・ウェインは孤独ではなかった

 恥ずかしながら、『LEGOバットマン』の上映中の大半の時間で僕は泣いていたバットマンは孤独を力とするヒーローだ少年時代に両親を殺されて以来、人を喪う哀しみを恐れた彼は本当の意味での友人を作ることなく独りで生きてきたゴッサムシティ(時にシカゴであり、時にロサンゼルスでもあった)の守護神である彼はバットマンとして住民たちに感謝されこそすれ、ブルース・ウェインという本性を知るものは一部の例外を除いて存在しなかった

ブルース・ウェインが孤独であることを人は知らないある人はバットマンという稼業が多くの人間の様々な知恵を借りて成立していると考えているしある人は素顔のバットマンは人気者であると錯覚していることだろうバットマンは不可能を可能にする正義のヒーローだからだそれは観客である僕らにも当てはまる劇中では確かに『バットマン』という物語の永遠のテーマが"孤独"であるということはある程度強調されているしかしマイケル・キートンクリスチャン・ベールベン・アフレックジョージ・クルーニーが高いスーツを着こなし金持ちの集うパーティーなどに夜な夜な出席をしている姿を見た時にはどうしたってバットマンを示すその二文字のことは忘れてしまっていたのではないかダークナイト』やその他の作品でも,本当の意味でそのテーマについての解答が得られることはなかった

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こんな男が孤独に見えるわけが...うーん冴えない

 

 今作の『LEGO バットマン』が従来作品と全く異なる点はバットマンの本性ブルース・ウェインがなにものでもないただの無機物(LEGO)であるということだそうしたときにバイアスがかからない状態でバットマンとは一体何者であるかという問いについて僕たちは初めて認識し,考えることができる。真の"孤独"を表現しながらも、ものすごくとてもキツイというわけではない妙なバランス感をLEGOという建前が提供してくれる。

 

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バットマンの孤独がフィルターなしに描かれる

 

出会いと別れ、また会う日まで

 バットマンとの出会いはその道の先にあるいつもの映画館だった。幼いころの僕にとって、「映画」と「父との思い出」の言葉の意味するものは同じだった。毎週、父に連れられて映画を観に行くことが習慣であった僕はその日も「バットマン観に行こう」と言った。実質的に父と会う時間は、家から映画館までと、映画館から自宅までの車中だけ。鑑賞後,特殊な能力ではなく、荒唐無稽なガジェットで戦うその姿に胸を躍らせ、「自分もバットマンになれる」と大満足で父の車に乗り家まで送ってもらった。その時の僕には、バットマンが持つ孤独と恐怖を感じる事はできなかったが(ハズレの作品だったということもある)、帰りに父に「友達を作れ、それも良い友達を作れ」と言われた事は朧げながら覚えている。結局、全くいないというわけではなかったが、友達が多い方ではなかった僕は、休みの日には独りでゲームなどをしていることが多かった。なまじある程度成績が良かったことと、クラスの代表などをやっていたこともあり、ある程度は注目を集めていたが、放課後に延々と学校に残って友達と話していたという記憶もない。今考えると、中学、高校、大学とステージを進めていくに従って(大学での付き合いは恵まれていたが)、それまでの友人関係の繋がりは殆ど無くなってしまっている事から、あまり良い関係は作れていなかったように思う。

 初めての出会いからバットマンに対して特に大きな感情を抱くことはなく、たまに観る機会があれば観る程度で、そこまで思い入れのある作品とはならなかった。後に『ダークナイト』と出会うまでは。『ダークナイト』はバットマンが負ける戦いだ。ロビンやキャットウーマンなどの仲間を手に入れる事ができなかったバットマンが孤独の限界を受け入れる話でもある。親との関係が希薄だった境遇や、友人関係の構築の下手さからバットマンと自分にある種の類似性を見出していた。僕は僕自身の生き方に後悔もしていなかったし、バットマンというある種かっこつけた、美化された存在によってそういう生き方も良いと思ってしまっていた。

 

 『LEGO バットマン』は『ダークナイト』に対するアンサー、そして次のステップへと歩みを進める作品だ。バットマンは「You complete me.」と語りかけるジョーカー(劇中でもネタにされていた)とアルフレッドを始めとする理解者たちを同一の理由で遠ざけてきた。喪う哀しみから避けるようにして。そこには正義も悪もない。そしてメタ的にいえば,この問題が永遠に解決しない(させない)ことがバットマンというプロジェクトの一つの存続理由でもある。

ジョーカーが自分の存在価値をバットマンに認めさせようとする理由は、そこに善悪の物語を成立させるためだ。スーパーマンにはゾッド将軍がいたし、ソリッド・スネークにはリキッド・スネークがいた。善悪の問題には対となるヒーローとヴィランが必要不可欠なのだ。そして、ヒーローがヴィランと戦うために同様に必要不可欠なのがサイドキックや理解者の存在だ。アイアンマンにはジャーヴィスが、雷電には『大佐』が。ジョーカーは善悪の物語を成立させるため、アルフレッド達はバットマンを勝利に導くために、両者とも「物語を完結させる」という同じ理由でバットマンに働きかけてきた(事実、ダークナイトは完結しなかった)。『LEGOバットマン』ではこの問題について一つの回答を示す作品だ。 そして正義も悪もその両方を受け入れた時、この作品はバットマンの続編ではなく、メタ的に『LEGOムービー』の続編として昇華される。物語を紡ぐ上で、過去のマニュアル(テンプレート)を辿りつつ、新たな結論を創造することで物語として完結させる。これこそが前作の目指したゴールでなくてなんなのだろうか。ラストシーンのアレや光るアレについては妹も許されたということだろう。『スカイフォール』や『ビューティフルドリーマー』がそうだったように、この先を語ることは許されないようにも思う。 しかし、僕はラストではただ震えることしかできなかった。最大の理解者を喪ったからだ。バットマンという作品は、本作をもってひとつの終りを迎えることになる。

 

映画を見終わって、僕は試されたと思った。この先どう選択をして生きていくのかということを。帰りがけ、右手にみえるユニオンステーションはあの時より寂れていた。扉は閉ざされている。 さよなら、バットマン。また会う日まで。