ヒトトモノノ歯車

百万年くらい練習して、文章で飯を食う

または私は如何にして世界を救うことを止めたか -Undertale ネタバレ無し感想-

ここで一つ、昔話をしよう。父はたまに家に訪れては(帰ってきては)気まぐれで僕にプレゼントを与える、そんな人物だった。PlayStationもその気まぐれの産物だ。多くの友人がスーパーファミコンニンテンドー64ゲームキューブと専ら京文化と共に青春を過ごす一方で、僕の少年時代はコミュニケーションが少し苦手な閉じた箱に捧げる事になる。この気まぐれによって。

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 気まぐれの1つの形

 

御存知の通り、当時の任天堂は『マリオカート』、『大乱闘スマッシュブラザーズ』、『カービィのエアライド』といった友人たちとのコミュニケーションツールを大量生産し、「ゲームのうまさ」という新たなスクールカーストを定義していた(結果的に裕福な家の子は色々なゲームを買ってもらうことができるため、ゲームのうまさは家庭事情とほぼ同義だったが)。そういった背景から、主にPlayStationに興じていた僕のゲーム生活はほぼ閉じられており、友人達の宗教勧誘と集会への参加の要請を振り切って、一人用ゲームの続きを遊ぶ為に家に帰ることが多かった。わかりやすく言えば、彼らは『スマブラ』を持っていない僕を誘う事によってビリを免れようとし、僕はそれを断った。僕は一人用のゲームを遊んだ。しかし、僕にとってはPlayStationこそ大切なコミュニケーションツールに他ならなかった。

 

ただしお伝えしなければならない事がある。

オーバーブラッド2』というゲームがある。PlayStation中期のゲームで、世界観はモロに『ブレードランナー』をパクったアクションゲームだ。ちょうど『メタルギアソリッド』と同じような時期に発売されたソレは、『メタルギアソリッド』と同じアクションゲームであり、『メタルギアソリッド』と同じくストーリーに重点が置かれた作品だった。当時どういった因果があってこのゲームが気まぐれの対象に選ばれたのかは最早覚えてはいないが、僕は確かにこのゲームを丸一年以上繰り返し遊んでいた。ただしお伝えしなければならない事がある。当時、僕はアクションゲームが大の苦手だったのだ。

 

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 何度も遊んだはずなのに、この画面を観たのは一度きりだったかもしれない

 

国民的ゲームの仕様を今更解説する必要もないと思うが、『オーバーブラッド2』は7つのチャプターによって構成されていた。それぞれのチャプターは大きく分けて探索パート、戦闘パート、ミニゲームパートの三幕によって構成され、探索パートは主に町や敵のアジトの探索であり、戦闘パートはボス戦を含んでいたし、ミニゲームは時によったが脱出などの演出に用いられていた。また本作の特徴として、武器やアイテム選択時にも常に時間が流れ続けるという、当時の潮流とは逆行した大変非現実的な仕様が実装されていて、アクションゲームが苦手な僕を更に悩ませる要因となっていた。お察しの通り僕はこのゲームを一人でクリアすることができなかった。特に(記憶に寄ると)チャプター5の監獄ステージでは開幕から素早い獣とのボス戦があり、拳銃を抜く間もなく翻弄されることが常だった。

「わかった、じゃあ川下りを頼む」

父はそういうと僕にハンドルを手渡した。繰り返すがチャプター5は監獄のステージであり、監獄はジャングルの奥地の川下に据えられていた。チャプター5は冒頭でモーターボートに乗って川を下るミニゲームがあり、拳銃こそ握ろうとすると手が震えたが、ハンドルを握らせれば視界の右上にある赤いバーをわずかすら減らすことなく下りきる事ができた。バーは寿命をデフォルメしていた。一方、父には人殺しの才はあったが、ボートを操るセンスは無かったため、父がゲームを進める時には僕がその橋渡しを、僕がゲームを進める時には上陸後の殺しを交換する事で、お互いのデータでゲームをそれぞれ進めることができた。これはチャプター4の「社交ダンス」とその後の逃走劇でも同様であった。

 

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それは人工的な、まやかしのジャングル

 

先刻も言った通り、僕はこのゲームを一年以上に渡ってプレイし続けていた。やる気になれば1日でもクリアができそうなこのゲームを何度も、何度も。寿命が尽きる前にリセットして息を吹き返させるように。それはこの奇妙な取引が所以であった。父は多忙で、家に訪れる事が稀だ。それ故に、ゲームの面白さ以上に父とのコミュニケーションツールの1つとしてこのゲームは機能していた。父が来る前にチャプター4を終わらせておき、川下りを見せた後で殺しを観察する。その繰り返しだった。『スマブラ』は確かに偉大なコミュニケーションツールに違いないが、僕にとってゲームとは多かれ少なかれそういうものだった。ちなみに、この依存関係はある日を持って突然に終わりを告げる事になるのだが、それもまたある人とのコミュニケーションをはじめたことがきっかけだった。しかし、それはまた別の話だろう。

 

つまり当時の僕にとって、「ゲームのエンディング」は実際のゲームの寿命とは異なるものだった。原体験は『オーバーブラッド2』だったが、『ドラゴンクエスト7』でも、『ファイナルファンタジー8』でも、『メタルギアソリッド2』でもそれは変わらなかった。ゲームはそれだけで閉じられていない周囲の環境を含んだ思い出であり、エンディングはその通過点に過ぎなかった。いつからだろう、ゲームが「エンディング」と共にその寿命を迎えるようになったのは。

 

目的を見失って、ただ世界を救うだけの存在へ

"ゆうしゃ"として生まれ落ちては世界を救い、また次の世界へ。助けた人は星の数ほど、獲得したトロフィーの数は4500を超えていた。僕はいつの日か目的を見失って、ただ世界を救うだけの存在へと昇華していた。もはやそこに意識はなかったように思う。ゲームが「エンディング」を迎えるとともに世界は天寿を全うし、それから蘇ることはなかった。一度落とした女性に興味を失うようなものだ。

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世界を救ってきた実績の色

 

話は飛ぶが、最近のゲームは終わりが迎えられないように作られている。ハイエンドであれば永遠に戦争を繰り返すFPS、モバイルであればサービス終了まで続くソーシャルゲームがそうだ。一人用のゲームで延々と開発されるDLCもその施策の1つ。せっかく何年もかけて創った世界を数週間、はたまた数日で遊び尽くされて他の会社の創った世界に移ってほしくない、永遠に束縛し続けたいとする制作側の欲望と、1つのコンテンツに継続して投資して欲しいと考える経営側の傲慢さの利害が一致した結果だ。この影響はシステムにとどまらず、ゲームという媒体におけるストーリーテリングのあり方にも影響を及ぼしている。

ファイナルファンタジーXV』や『グランド・セフト・オート』、『メタルギアソリッドV』などの大作ゲームを1つでもプレイしたことがあればわかってもらえるかもしれないが、最近のゲームは「エンディング」をはっきりと描かない。いくら世界を救おうと、核戦争の危機から脱しようと、ゲームはプレイヤーを追い出そうとはせずに後に続く"永遠の日常"で遊ばせようとする。例えば『ファイナルファンタジーXV』で言えば世界を救った後も主人公たちに旅(プレイング)を続けることを推奨していたし、『メタルギアソリッドV』では軍隊を組織して限りなく軍拡を進めることを迫られた。ゲームをあまりプレイすることのない読者に説明するならば、『アベンジャーズ』を始めとするMARVEL映画であったり、『スターウォーズ』に言い換えることができる。シリーズを、物語を延命し続けることで、お金を落としてくれる客を束縛し続けるという水商売だ。

 

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 このような甘言に惑わされてはいけない、次の世界を救わなければならないのだから

 

話を戻そう。僕は間違いなく"ゆうしゃ"だった。そのような性的な誘惑に惑わされること無く、黙々と沢山の世界を救い続けた。救い終わった世界への興味は失われた。

 

ここで一つ、昔話をしよう。

『Undertale』というゲームはそれらとは少し異なる世界だった。例えるなら決して美人ではないが気になる相手、ついちょっかいを出したくなる女の子のようだった。大変変わった子で、彼女との対話は僕の"ゆうしゃ"人生で随一と言ってよいほどだ。この経験は二度と忘れたくないものであったし、同時に全てを忘れてもう一度やり直したいとも思えた。せっかくなので話しておきたいが、最も印象に残ったのは彼女との別れ時だ。大切にしたい子であったはずなのに、僕の好奇心、わかりやすくいえばちょっかいを出したい気持ちが少し強くなり、彼女を傷つけてしまったのだ。『Undertale』をプレイしていない"ゆうしゃ"諸君には何を言っているかはわからないと思うが、本当にそういうことだったのだ。そのまま彼女とは仲直りをすることができずに、世界は唐突に寿命を迎えてしまう。彼女は基本的におしゃべりだったが、別れ際は何も語らなかった。しかし彼女は別れ際に僕にこう言い放ったようにも思えた、「もう来ないでくれ、次にプレイするゲームがあるはずだ」と。

 

f:id:Adw:20171022152334j:plain本来であればここに気を利かせて『Undertale』のスクリーンショットを載せておくべきだが控えておこう。もうあの頃には戻れないのだから

 

その言葉を聞いて僕は彼女を傷つけたことをひどく後悔した。突き放され、拒絶されることで恋に落ちてしまったのだ。もう一度世界に命の息を吹きこみたくなっていた。永遠に留まりたくなっていた。ナイフを折られ、"ゆうしゃ"ではなくなっていた。しかし、許されることはない。もう世界は息絶え、彼女に会うことはできないのだから。

 

今でもふと別れを後悔し、幸せだったときのやり取りを思い出す。Youtubeを開いて思い出を探しては虚しくなる事もあった。想いを募らせる中、その別れはある事実を呼び起こした。思えば過去の僕はそのような出会いを大切にする人間だった。1つのゲームを救った後も繰り返し遊び続けるような。ゲームは1つのコミュニケーションツールであり、僕はデフォルメされた命のバーを減らさないことに長けていたはずなのだ。

ここで一つ、昔話をしよう。父はたまに家に訪れては(帰ってきては)気まぐれで僕にプレゼントを与える、そんな人物だった。

VHSに拒絶された血と、テープに染み入る僕のミーム

No, I am your father.
Darth Vader / 『Star Wars EP5 ESB』

 

ジェダイへの道は極めて厳しいものだった。修行は幼稚園年長から小学校低学年に渡って続けられた。その頃、僕は下校の挨拶が済むとほぼ同時に家の自室に帰っていることができた。自室には僕が大人になった時も後悔しないようにと、母が選んでくれたデザインの良いデスクがひとつ。広くない子供部屋におしゃれなデスクは少し浮いていて、その存在の危うさを示すように、テレビデオと呼ばれた過去との交信装置がその机の不安定な位置をゆらゆらと揺蕩えていた。

テレビデオには、母から譲り受けた『スターウォーズ EP4』のVHSが常に挿さっていて、僕が自室に戻ってまずすることと言えばそのVHSの再生だった。ジェダイになるためにはどうしても必要な日課だったし、必要でなかったとしてもそうしていた。一応『スターウォーズ EP4』のあらすじを軽く紹介すると、ルーク・スカイウォーカーという辺境の惑星に住む農家の息子が、ひょんなことから銀河をまたにかける大冒険に巻き込まれるというものだ。彼を冒険に巻き込んだ張本人であるベン・ケノービは、かつてジェダイと呼ばれた光の騎士の生き残りであり、世界を征服しようとする銀河帝国を滅ぼす機会を伺っていた。ジェダイは帝国と戦うための能力を主に2つ有していて、それがフォースとライトセーバーだ。フォースは身も蓋もない言い方をすれば超能力で、その存在を信じて訓練したものには誰にでも授けられるはずのものだった。僕はこの映画を観てジェダイを志すこととし、日々そういった鍛錬を続けた。クリスマスに授かったライトセーバーを毎日振ったし、誕生日に貰った憎きダースベイダーのミニフィグを机の上に飾っていた。

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 テレビデオと言えばSONY

 

「いらない、もうみないから」

そういうわけで、僕はある程度フォースとライトセーバーが扱えるようになっていた。しかし、まだジェダイになるための資格は満たしていなかった。つまり、母は『EP5』と『EP6』のVHSを持っていなかった。僕の中でスターウォーズはデススターの崩落とともに完結していて、その先の展開は神のみぞ知るところにあった。ある時、母が「続きをみる?」と言った。僕がその質問に頷くと、母はどうやったか知らないが、残り2作のVHSを用意してくれた。実を言うと、僕はこの2作をそんなにみたいものとは思っていなかった。作品自体は『EP4』自体で一応完結していたし、かの憎きダースベイダーは少なくとも一日に一度、僕の手によって倒されていたからだ。用意された以上、親の前でそういった秘密の説明を行うわけにもいかず、素直に観ることにした。テレビデオから初めて『スターウォーズ』が押し出され、『帝国の逆襲』が吸い込まれていった。

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 テレビデオは『ジェダイの復讐』を吐き出した。結論から言って、僕は失望をしていた。『スターウォーズ』を知るものなら誰でも知っているであろう、”真実”を知ってしまったからだ。いや、僕はそれ自体に失望していたわけではなかった。正確に言うと、ルーク・スカイウォーカーの強さは生まれ持った血に寄るものだということに失望をしていた。結局、努力を成功に導くものとは天から与えられた才能であり、さらに言えばそれは予め遺伝子に刻み込まれていた。『EP4』の段階で、ベンの口からそういったことは示唆されていたので今更ではあるが、少なくとも小学生の僕には『EP5』を観てそう感じられたし、結果としてそれから再びライトセーバーを握ることはなかった。次の日からはハイパードライブを用いて瞬時に家にかえることもしなかったし、それを封印した。(現在はその封印は解いていて、遅刻をしそうなときはハイパードライブを利用して免れている。)更に追い討ちをかけたのが、そのしばらく後に観た『EP1 ファントム・メナス』だ。『EP1』で新たに神は「ミディクロリアン」を創造した。同作によると、フォースを扱えるか否かは産まれた段階で既に決定づけられていて、それは血中のミディクロリアン濃度によって測定されるというのだ。もうそこに新たに希望のつけ込む隙は存在しなかった。『スターウォーズ』は初めから天才たちの物語だったのだ。

小学校を卒業する頃、家をリフォームすることになり、家から荷物を処分、撤収させることになった。母は僕にリビングのテレビ台の隅に置かれたモノを指差して「あれどうする?」と聞いた。僕は「いらない、もうみないから」と言った。(ちなみに、この選択は後悔している。スターウォーズは今は好きな作品で、Blu-rayなどはある宗教上の理由により購入できないからだ。詳しくは「スターウォーズ ハン・ソロ 改変」などで検索するとよい。)

 

やっぱり銀河を守ることにしよう、ただの人間だから

ジェダイの道を諦めた僕は、 『スターウォーズ』とは人並みに付き合うことにして、「『EP7』それなりにおもしろかったなー」とか「『ローグワン』つまらなかったなー」とか適当な感想を垂れ流すようになった。今更打ち明けるが、この文章は『スターウォーズ』ではなく、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』に捧げるものだ。

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敢えて書かないが、邦題は絶対に許さない

 

『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』を始めとするMCU(Marvel Cinematic Universe)の作品群の1つで、『スターウォーズ』のようなスペースオペラとジャンル分けされるSF映画だ。スターウォーズと同様に、且つただの真似事では済まされない素晴らしいセンスで宇宙を描き、観る者を圧倒させる。特に冒頭、オープニングロールの常軌を逸した映像は一見の価値がある。デザイン、音楽、セリフ運び全てから、本作がスターウォーズの単なるフォロワーであろうとするのではなく、勝負を仕掛けようとする気概が感じられる。

本作は仲間のあり方についても正直に問いただしていて、人生に失望した登場人物達が、それぞれの問題を解決するために友情を築くという王道のストーリーはMCU最高傑作の冠に恥じないものであった。随所にスターウォーズを意識していると感じる部分もある。しかし正直なところ、個人的には同監督の『スーパー!』を超えることはなく、心に深い傷を刻む作品には至らなかった。

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 『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』の監督が手がける傑作。SHUT UP CRIME!

 

敢えてはっきりというが、続篇『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー Vol.2』は真の傑作だ。僕はずっとこの作品を待っていたんだと見てすぐに確信した。救われた。本作は前作からの人間関係のあり方を更に発展させている。例えば、ドラックスというキャラクターは前作ではジョークの通用しないキャラクターであったが、続篇ではジョークがウケるキャラクターとなっている。直接的にそういった人間的成長を描くシーンは存在しないが、作品と作品の間にそういった成長が伺え、仲間同士の絆がより強まったことが理解できる。余談だが、先程紹介した同監督の『スーパー!』での名セリフ「(コミックの)コマとコマの間で起きてることなのね」が思い出されるものだ。『Vol.2』のオープニングロールを観て、映画の中のキャラクターたちと同様に、僕とこの映画との絆も年月を経て深まっていることに気づいた。なぜなら、この段階で僕は涙が出ていたからだ。前作のオープニングでは主人公は孤独だった。

ただ、本作は前作とはテイストが少々異なる(これによって前作より評価を下げる人がいるのも事実だろう)。前作が友情の物語だったとすれば,本作の主軸は親(父)子の物語だ。主人公のスターロードは父親を知らなかったが、本作ではついに父親と邂逅することとなる。また、劇中でYonduというキャラクターは「俺は考えてねえ、心だ」とスターロードに繰り返す。スターロードにとって彼は「考えるのではなく、感じるのだ」と説いたYodaそのもので、成長の機会を与える師(育ての父)であった。本作はシナリオの面でも、強く『スターウォーズ』を意識させる。

では、前作以上にここまで『スターウォーズ』に挑戦しようとするこの映画の狙う本質とは一体なんなのか。それは、スターウォーズと全く異なる結論だ。本作は『スターウォーズ』に一石を投じ、更にはそれを越えようとしている。事実、僕の中でこの作品は『スターウォーズ』を超越した。この作品が一体なにを伝えようとしているのか、誰を救おうとしているのか。それは観たヒトそれぞれに考えてもらうとして、僕はこの作品が歴史に刻まれることを期待する。そして、やっぱり僕は銀河を守ることにしよう、ただの人間だから。

 

ジェームズ・ガンは銀河で一番良いオープニングを作る監督ということで異論はないよね?

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NieR:Automata 5/1 スクエニカフェイベント & 5/3 ネタバレトークショー裏レポート

 

とんでもない確率のような気がしますが、当選倍率20倍程度のスクエニカフェでのニーアオートマタ公式放送のスタジオ観覧と、2日後の30倍程度のネタバレトークショーのイベントに両日参加することができたので、その様子をレポートします。

放送された内容については、放送のアーカイブや他の人のまとめなどを見てもらえばいいと思うので、割愛します。よって特に面白い内容はありません。

 

5/1 スクエニカフェ裏レポート

19:30開場、20:00開演にもかかわらず30分前には既に待機の集まりができていて、開場時にはほぼ全員が揃っている状態の賑わいぶりでした。ちなみにほとんど女性。

開場されると、早くに来ていたということもあって自分は1番前の列へ。ここでは既にヨコオさんを始めとするスタッフは集まって談笑をしている状態でした。談笑の内容は詳しくは載せませんが、とても和気藹々としている状態で、神谷さんも朗らかな印象でした。数分して、奥のトイレから2Bのコスプレをした司会の結さんが登場。すかさず近くに駆けつけて話をかけるイケメンの田浦さんが流石だなと思いました。

 

開演前に会場に観客が揃うと、斎藤Pをメインにして観客に対して軽く前説や談笑が行われました。この時ちょうど、個人的に以前から関わりがあった司会の結さんが僕の目の前に座る座席配置となり、お互いに少し恥ずかしい状態に。その流れもあり、斎藤Pの「まさか明後日のネタバレ放送も来るって人いないよね?」という質問に僕が手を挙げると、ヨコオさんからすかさず「完全に裏取引がここで行われているな!」という厳しいツッコミが笑。田浦さんはヨコオさんについて『エヴァンゲリオン』の渚カヲルのような見た目を想像していたそうですが、実際に会うとそのギャップに愕然としてしまったそうです。会場も良い感じにあったまると、放送準備に移っていきました。

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距離感的にはこんな感じ。写真は放送後なので位置が入れ替わっていますが。

 

放送準備といっても、やることと言えばヨコオさんが神谷さんに例のエミールのコスを施し、演技のレクチャーを行うという段取りのみ。彼氏にマフラーを巻くように丁寧にマフラーを巻いてあげる様子に、斎藤Pがホモ発言をし、女性だらけの会場がキャーキャー湧くという展開に。ちなみにヨコオさんは他人にエミールコスを施すのは初めてだったそう。

「マフラーは五分前でいいが、マスクは30秒前くらいでいい(辛いので)」という指示のもと、神谷さんはギリギリまでマスクを被りませんでしたが、ヨコオさんに「(僕が)何か発言をしたら身振り手振りを激しくしておけばいいので!笑」とレクチャーをされていました。その後、マスクをかぶった神谷さんは一言、「何も見えない...」とおっしゃっていました。

ちなみにここまでで斎藤Pは、僕が見た限りで少なくとも三杯はハイボールを飲んでいて、異常なペースで酒が進んでいました。

 

放送の内容は当然放送されていたので割愛しますが、ニコニコのコメント上でヨコオさん本人ではないことに誰も気づいていないということに、舞台裏では正体が明かされるまで驚きの声と笑いが止まりませんでした。

 

公式放送中は混乱を避けるために、観客はドリンク一杯のみだったのですが、結chに放送が移行すると、スクエニカフェのニーア限定メニューによるビュッフェ形式の食べ放題が用意されました。ちなみにそれらは全て無料です。ここらへんの写真を撮りたかったのですが、後半の例外を除いてNGでしたのでありません。

結chでの放送中、宣伝の高野さんが割と遠目の位置に持ってきたフライドポテトを、ヨコオさんが小粋なトークで場を賑やかしながら巧みに手を伸ばして食べている様子が個人的にとても印象的でした。放送中はヨコオさんご本人はスクエニカフェのトイレの扉の前に座っていて,斎藤Pから「トイレに行きたい人はヨコオさんをまたいでいってください」という発言もあり、僕はトイレに行きました。

 

放送後は小一時間程度のサイン会&写真撮影&談笑タイムへ

ここで少しヨコオさんのファン思いな一面が垣間見えるワンシーンも。ヨコオさんが現在発売中のニーアスマホカバーにサインを求められた際に書き誤りをしてしまいカフェで新たにスマホカバーを実費で購入してサインを書き直すという神対応を発揮。ヨコオさんは「間違えた方は僕が使うんで気にしないでください」とめちゃめちゃ紳士っぷりを発揮していて僕は惚れそうになりました。ちなみにヨコオさんは携帯などの高価なものや日付を入れる対応(苦手なので)はお断りしているそうです。

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上段左:結 上段右:PG田浦 中段左:斎藤P 下段中央ヨコオタロウ 下段右:PG神谷 (敬称略)

 

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撮り終わってなんで人類に栄光あれのポーズをしなかったんんだろうと少し後悔...

 

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来場プレゼントはポストカードとポッドのスキン

 

5/3 ネタバレトークショー裏レポート

 

会場はスターオーシャンのコラボカフェなどを行っているSTORIAでした。開演一時間以上前に行ったのにも関わらず長蛇の列で、ニーアの人気を改めて実感するほど。カフェのイベントは90%程度が女性でしたが、意外だったのはこちらのイベントは男声が非常に多かったということです。会場につくと斎藤Pや声優方を除くヨコオさんや岡部さんなどが、奥の席で既に飲み会を始めて盛り上がっていました。

どの席もテーブルごとに知らない人同士がニーアトークで花を咲かせていて、他のイベントでも開演前にここまで賑わうことってあまりないんじゃないかなあという印象でした。

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出典(http://www.jp.square-enix.com/company/ja/news/2016/html/78d191a262ae1003dab22d90dc762f4b.html

 

開演前の写真撮影はOKだったようで何点か写真をあげます。ぶっちゃけネタバレトークショーの方は声優さんに気を使ってか、あまり舞台裏という舞台裏は無いので、ほとんど放送ママと言っていいかと思います。トークショーの内容に関してはこちらにまとめている人がいたのでそちらなどをどうぞ...

オートマタ:ネタバレディナーショーまとめ

 

 

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 座席番号。僕は3A席でしたが、基本的には21Bや15Aといったようなヨルハタイプを思わせる席番号でした。

 

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エミールマスクと台本。誰の携帯だったんだろう...

 

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花江さんが個人的に持ってきた資料集達。これでいくらかかったんでしょうか...?

 

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全く使われなかった電撃さんの作ったストーリーパネル

 

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めちゃめちゃジャンキー!他にもパスタとケーキが出たのですが、トークに集中して撮影を忘れていました…

 

放送後は声優さんが捌けた後、ヨコオさん始めとするスタッフさんが出口でそれぞれ握手を行う形でお見送り。ヨコオさんとイケメン田浦さんには一昨日会ったということを覚えていただいていて、「一昨日もいましたよね?笑」と声をかけていただきました。

帰り際、岡部さんに僕が「『還ラナイ声』が一番好きな曲です!」とファン発言をすると、岡部さんは「あの曲はいろいろあってね~...!」と言われたんですが、一体何があったんだろう...

 

以下,個人的な所感の箇条書き

  •  ウェポンストーリーの矛盾の話は、レプ兄とゲシュ父の話が同時にあるのと同じ理由だと思う。ヒントはDOD3に
  • パスカルは人間的という発言があったけど、個人的には最も機械生命体らしい機械生命体だった。そのことについてヨコオさんに彼のある矛盾した部分について質問をしたけど、「そこは意図しているが想像してくれ」といった内容のお返事を頂いた
  • 廃墟都市を復活させているのは美術資料集にあった人類遺産再生管理の部分の話だと思う
  • エイリアンとかが地下にいるのは、ゲシュタルト計画が失敗した地区は地下に埋めるみたいな話を聞いたことがあるので、その影響か。その後廃墟都市が作られた?
  • 月の涙が「花」と関係ないというのは意外
  • 複製された町が白塩化症候群と関係があるというのは、白塩化したあとの町の記録を参考に作られたか、最終的に無機物まで白塩化したのか...
  • 悠木碧がクソかわいかった
  • 悠木碧が鬼のようにかわいかった
  • 悠木碧のファンになった

 

各放送ページはこちら


 

さよなら、バットマン

  映画を観に行く時、いつも必ず目にする風景がある。それはある個人経営のスポーツ施設であり、「ユニオンステーション」という看板を掲げたそれは、映画館に続く広々とした道に面していた。地味な飲食店が立ち並ぶ中、周囲とは浮いた店名の通り品の無いその外観が一際目立っていた。施設には、ボウリングやバッティングセンター、カラオケ、ダーツを始めとする、友人たちと無意味に時間を潰すにはふさわしい遊戯が数多く用意されている事を示す、色とりどりの看板やのぼりが並んでいる。利用価格も安価なことから近隣に住む学生の遊び場として親しまれていたらしい。僕の中学時代にも友達同士でそこに意味もなく集る事が多かったようだ。名前だけ聞くと大仰な施設だが,実際には豊富な遊具や多くの学生がおさまりきるとは到底思えない少々こじんまりとした大きさで、脇を通るたびにどのような中身なのかと疑問が湧いていた。しかし、その解答はおそらく永遠に得る事ができない。そこに入った事がなかったし、入る事も無いだろうから。

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こちらは実際のユニオン駅、ユニオンステーションはもっと小さい

 

ブルース・ウェインは孤独ではなかった

 恥ずかしながら、『LEGOバットマン』の上映中の大半の時間で僕は泣いていたバットマンは孤独を力とするヒーローだ少年時代に両親を殺されて以来、人を喪う哀しみを恐れた彼は本当の意味での友人を作ることなく独りで生きてきたゴッサムシティ(時にシカゴであり、時にロサンゼルスでもあった)の守護神である彼はバットマンとして住民たちに感謝されこそすれ、ブルース・ウェインという本性を知るものは一部の例外を除いて存在しなかった

ブルース・ウェインが孤独であることを人は知らないある人はバットマンという稼業が多くの人間の様々な知恵を借りて成立していると考えているしある人は素顔のバットマンは人気者であると錯覚していることだろうバットマンは不可能を可能にする正義のヒーローだからだそれは観客である僕らにも当てはまる劇中では確かに『バットマン』という物語の永遠のテーマが"孤独"であるということはある程度強調されているしかしマイケル・キートンクリスチャン・ベールベン・アフレックジョージ・クルーニーが高いスーツを着こなし金持ちの集うパーティーなどに夜な夜な出席をしている姿を見た時にはどうしたってバットマンを示すその二文字のことは忘れてしまっていたのではないかダークナイト』やその他の作品でも,本当の意味でそのテーマについての解答が得られることはなかった

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こんな男が孤独に見えるわけが...うーん冴えない

 

 今作の『LEGO バットマン』が従来作品と全く異なる点はバットマンの本性ブルース・ウェインがなにものでもないただの無機物(LEGO)であるということだそうしたときにバイアスがかからない状態でバットマンとは一体何者であるかという問いについて僕たちは初めて認識し,考えることができる。真の"孤独"を表現しながらも、ものすごくとてもキツイというわけではない妙なバランス感をLEGOという建前が提供してくれる。

 

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バットマンの孤独がフィルターなしに描かれる

 

出会いと別れ、また会う日まで

 バットマンとの出会いはその道の先にあるいつもの映画館だった。幼いころの僕にとって、「映画」と「父との思い出」の言葉の意味するものは同じだった。毎週、父に連れられて映画を観に行くことが習慣であった僕はその日も「バットマン観に行こう」と言った。実質的に父と会う時間は、家から映画館までと、映画館から自宅までの車中だけ。鑑賞後,特殊な能力ではなく、荒唐無稽なガジェットで戦うその姿に胸を躍らせ、「自分もバットマンになれる」と大満足で父の車に乗り家まで送ってもらった。その時の僕には、バットマンが持つ孤独と恐怖を感じる事はできなかったが(ハズレの作品だったということもある)、帰りに父に「友達を作れ、それも良い友達を作れ」と言われた事は朧げながら覚えている。結局、全くいないというわけではなかったが、友達が多い方ではなかった僕は、休みの日には独りでゲームなどをしていることが多かった。なまじある程度成績が良かったことと、クラスの代表などをやっていたこともあり、ある程度は注目を集めていたが、放課後に延々と学校に残って友達と話していたという記憶もない。今考えると、中学、高校、大学とステージを進めていくに従って(大学での付き合いは恵まれていたが)、それまでの友人関係の繋がりは殆ど無くなってしまっている事から、あまり良い関係は作れていなかったように思う。

 初めての出会いからバットマンに対して特に大きな感情を抱くことはなく、たまに観る機会があれば観る程度で、そこまで思い入れのある作品とはならなかった。後に『ダークナイト』と出会うまでは。『ダークナイト』はバットマンが負ける戦いだ。ロビンやキャットウーマンなどの仲間を手に入れる事ができなかったバットマンが孤独の限界を受け入れる話でもある。親との関係が希薄だった境遇や、友人関係の構築の下手さからバットマンと自分にある種の類似性を見出していた。僕は僕自身の生き方に後悔もしていなかったし、バットマンというある種かっこつけた、美化された存在によってそういう生き方も良いと思ってしまっていた。

 

 『LEGO バットマン』は『ダークナイト』に対するアンサー、そして次のステップへと歩みを進める作品だ。バットマンは「You complete me.」と語りかけるジョーカー(劇中でもネタにされていた)とアルフレッドを始めとする理解者たちを同一の理由で遠ざけてきた。喪う哀しみから避けるようにして。そこには正義も悪もない。そしてメタ的にいえば,この問題が永遠に解決しない(させない)ことがバットマンというプロジェクトの一つの存続理由でもある。

ジョーカーが自分の存在価値をバットマンに認めさせようとする理由は、そこに善悪の物語を成立させるためだ。スーパーマンにはゾッド将軍がいたし、ソリッド・スネークにはリキッド・スネークがいた。善悪の問題には対となるヒーローとヴィランが必要不可欠なのだ。そして、ヒーローがヴィランと戦うために同様に必要不可欠なのがサイドキックや理解者の存在だ。アイアンマンにはジャーヴィスが、雷電には『大佐』が。ジョーカーは善悪の物語を成立させるため、アルフレッド達はバットマンを勝利に導くために、両者とも「物語を完結させる」という同じ理由でバットマンに働きかけてきた(事実、ダークナイトは完結しなかった)。『LEGOバットマン』ではこの問題について一つの回答を示す作品だ。 そして正義も悪もその両方を受け入れた時、この作品はバットマンの続編ではなく、メタ的に『LEGOムービー』の続編として昇華される。物語を紡ぐ上で、過去のマニュアル(テンプレート)を辿りつつ、新たな結論を創造することで物語として完結させる。これこそが前作の目指したゴールでなくてなんなのだろうか。ラストシーンのアレや光るアレについては妹も許されたということだろう。『スカイフォール』や『ビューティフルドリーマー』がそうだったように、この先を語ることは許されないようにも思う。 しかし、僕はラストではただ震えることしかできなかった。最大の理解者を喪ったからだ。バットマンという作品は、本作をもってひとつの終りを迎えることになる。

 

映画を見終わって、僕は試されたと思った。この先どう選択をして生きていくのかということを。帰りがけ、右手にみえるユニオンステーションはあの時より寂れていた。扉は閉ざされている。 さよなら、バットマン。また会う日まで。

ファイナルファンタジーXVは本当にファンタジーだったのか? -明らかに破綻したシナリオの違和感とその正体-

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会話ができない.

 

 

僕がFFXVを初めてプレイしたとき,というかジャッジメントディスクをプレイした段階で本作に対していきなり感じた違和感はそれだった.

はじめに,僕がドラクエやFFなどのRPGをプレイする上で,新たな街に訪れた時に必ず行う作業を列挙したい.

  • 街の入(出)口がいくつあるかを確認する
  • 全ての人間と二回以上会話する
  • 宝箱(場合によってはツボなども)すべてチェックし,アイテムを収集する
  • その街の物価(宿屋の値段など)を確認する

これらが僕が街に来て,最初にしないと気が済まないことなんだが,当然これはゲームについてのみの話だ.例えば僕が初めて池袋に来た時に

「へーここが池袋か.他の街に行くための道は...うーん...キリがないなあ...」

なんて事は考えないし

「こんにちは!ここは埼玉県民と中国人の街,池袋よ!(失礼)」

なんて池袋について今更教えてくれる人もいないはずだ.当然,他人の家に盗んでくれと言わんばかりに宝箱がおいてあることもなければ,物価なんて多少の違いこそあれある程度全国共通である.だから僕は,無意識のうちに今関わっている世界が現実なのか,ゲームのファンタジー世界なのかがわかっているし,それに応じた行動を取っている.

FFXVに僕が感じた違和感はそれだ.

なにが言いたいかといえば,FFXVに過去のRPG的なお約束的な要素は存在しない.核戦争後のアメリカですら,知性があればどんな人間でも話しかけることができた勇気のある僕(主人公,プレーヤー)は消え去った.FFXVでの僕は,限られたNPCと店員にのみ話しかけることを許され,一般市民から情報を得るには彼らが偶発的に行う会話を立ち聞きするしか無いのだ.

じゃあ物語序盤で訪れるガーディナと呼ばれるリゾート地で会話に耳を傾けてみよう.

「おなかすいたー」

「ここの味も結構イケてたなあ」

 

どうでもいい

 しかし他人の話はどうでもいいことこそが現実だ.

 

リアルな世界に『お約束』は似合わない

 FFXVは美麗なグラフィックで彩られた最新ゲームだ.ことコンシューマゲームに関して言えば最高レベルのグラフィックと言っても過言ではない,というかその通りだろう.美麗なグラフィックがもたらす物,それは間違いなく圧倒的な現実感だ.しかしゲームは現実ではない.その現実とゲームの境界を穴埋めするために,沢山の要素を持って観客(プレーヤー)を説得する必要がある.

食事をして,睡眠を取らなければ翌日に響くし(排泄だけは省略されているが,噂ではイケメンと美人は排泄をしないと聞く),街では主人公の物語とは関係なく住人が生活をしている.これらの要素はゲームを形作る一要素であるし,同時にプレーヤーに対して,この世界がゲームではないと錯覚させるための説得手段でもある.一方で,前述した会話を始めとするRPGのお決まり的要素は全て省かれてしまった.これは,現実的な仮想世界で,リアルじゃない行為をすることは“現実的ではないから”だ.そしてこの徹底的な現実への誘致は,とうとうゲームのシナリオにまで牙をむくこととなってしまった.

本作は,シナリオがその説得のための一要素になったがゆえに,巷では『未完成』『破綻したシナリオ』『描写不足』などと叫ばれているように思う.なんどもいうが,ここで僕が考えているFFXVの目指したゴールとは『圧倒的な現実感,実在感』なのだ.これらについて思うことを書いていこうと思う.

 

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誰もがこいつらを一人ずつ殺していくのだと思ったはず

 

明らかに破綻したシナリオの違和感とその正体

ここからが本題だが,その前に本作FFXVのシナリオについてごく簡単に整理してみよう.

  1. 白の国(ニフルハイム帝国)が黒の国(ルシス)を滅ぼした.(KINGSGLAIVE)
  2. 黒の国(ルシス)の王は死に,主人公である王子は王の力を手に入れて,白の国から国を奪い返すことを決意する.
  3. 白の国もそれなりに資源や治安などに関して問題を抱えており,それを解決するための黒の国征服だったが,改善の前に宰相なんかが起こしたりした混乱のうちに自壊.
  4. 王子は白の国を倒すこともなく,個人的な恨みを晴らすためだけに現れた宰相一人だけやっつけて国を奪還.

だいたいこういう感じだったように思う.レイヴスなんかの描写不足については僕の過去の発言を追ってもらうこととして(僕が最も感動したキャラはレイヴスである),それを差し引いてもかなり意味不明なシナリオだったはずだ.そしてこのシナリオの納得のいかなさ,違和感の最大のポイントは『まともなボス戦が無かった,復讐ができなかった』ことのように思う.

クリスタルを見張る四人の戦士たち

さて,この文章をここまで読んでもらって,二枚の画像を目にしてもらった.一枚目はFF4の四天王,二枚目はFFXVのニフルハイム帝国で幅を利かせる四人のメンバーたちだ.FFでは古くからクリスタルと,それらと対になる四天王の存在はある種のお約束要素だった.FF1ではリッチ,マリリス,クラーケン,ティアマット.FF4ではスカルミリョーネルビカンテカイナッツォバルバリシアだった.今作でもチャプター2終了時に,これ見よがしに登場して,今後の展開を予感させたのだ.ちなみにこのシーン,回想以外で主人公視点,もしくは主人公付近の視点以外で語られる唯一のムービーだったように思う(違ったらごめん).

しかし,現実は違った.一人も倒さないのだ.一応戦闘するシーンがあったりもするが,それらは偶発的だったり本来の目的とは異なり,復讐のために殺すという展開は存在しなかった.他の演出から鑑みても意図的に期待を煽ったムービー,まともな人間だったら書きそうもない常軌を逸した達成感のないシナリオ.これらは何のために用意されたものだったのか.

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ヴァーサタイル?え?誰...??

 

何を選択するのか

FFXVは『仲間との旅』を徹底的に意識した作品だった.前述した料理もそうだったし,豊富な仲間との掛け合いも『旅』を楽しませるためのものだ.圧倒的な現実感という世界観の構築の仕方も,自由にどこへ行っても良い『旅』だからこそ活きる.

本作では,前述したように回想以外では常に主人公視点,もしくは主人公付近の視点で物語が語られる.現実でもこれは同じで,『旅』は常に自分目線だし,同じ旅をした仲間(他のプレーヤー)の感想は本質的にはわかりようがない.それぞれがそれぞれの感想を得て,それらが今後の人生へと活かされる.ゲームに戻して言えば,ゲーム中に登場する仲間の感情は,自分の『旅』とは関係がないからこそ,今作でプレイアブルキャラクターはノクトのみだった.だからこそ例外を除いて,語られる物語(ムービー)も主観だった.再三言っていたFFXVが求める現実感も,全てこの『旅』の体験のために用意されたものだったと思う.旅シミュレータと考えるのがわかりやすいかもしれない.VRに対応するというのも,こう考えれば必然と言える.しかし,ここである問題に直面する.現実では自分は全知全能ではないし,一人の力は無力なのだ.

仮に主人公が全ての敵の大臣的なものをやってつけてまわったとしたら,すごい.いやすごいとしか言いようがない.魔法障壁とか必要ない.リアルじゃないのだ.絶対にコル将軍とかもっとたくさんの人がどっかで頑張って戦っているはずだし,途中で戦意喪失する敵もいるはずだ.加えて言えば,現実問題ある程度ヒントがあったといえ,嫁の兄が何考えてたかなんてわかるわけがないし,ぶっちゃけどうでもいい

このゲームが本当にすごいのはゲーム的価値をぶっ壊して,とにかく現実的に『旅』を体験させるために,邪魔なあらゆるものを排除しているという点なのだ.

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仲間との旅は最高に楽しい

 

意図的に挿入されたムービーの意図

ではなぜ,一点だけ現実的ではない例の四天王のシーンが強調されていたのか.今までの文脈で言えば,このシーンはむしろ無い方が現実的だったはずだ.それは10章以降のリニアな展開と15章のためにあるように思う.

本作では10章以降,自由な旅を諦め,リニアな展開に移行する.そしてここからは,仲間たちを失っていく物語に移行する.ヒロインは死に,イグニスは視力を奪われ,プロンプトは消え,グラディオからは信頼を失った.KINGSGLAIVEや前述したムービーの時から煽られていた復讐に身を投じて,又は国を取り戻すという大義によって主人公は大切なものを一つずつ喪っていく.『旅』は唐突に終わりを告げてしまう.

『旅』を妨害するもの,それが本作における敵の正体だ.それは煽られていたユーザ自身の復讐心だったり,仲間より王として国民を大切に思う心だったり,はたまたゲーム的な快感を得るためのものかもしれない.しかし,はっきり言ってこれらのリニアな展開,全て面白くないのだ.特に13章はひどかった.その大きな原因は仲間が誰もいなくて一人だったからだ.そう,ユーザは旅が出来ないことを不快に感じる.このゲームはファンタジーではない,旅シミュレータだからだ.

そこで僕らには『旅』を選択する権利が与えられる.具体的に言えばクリア後,ラスボス前まで戻されて“15章”と称した永遠の旅を体験することができる.普通であればクリア後の世界探索は物語ではない.しかし本作ではユーザが能動的に行う旅こそが最後の章であると宣言している.そして,この15章が遊ばれたFFXVの世界では,永遠に世界に平和が訪れない.それは王が世界(現実)よりも終わりなき仲間との旅(ファンタジー)を選択してしまったからだ.

旅シミュレータとしての価値.ユーザが虚構の物語よりも,現実感に満ちた旅・自分で綴る物語に楽しみを見出すこと.それこそがFFXVの存在意義だったように僕は思うのだ.

「やっぱつれぇわ」

それは、物語よりも仲間を選択した決意の証だったのかもしれない。